| ☆ 補足 : 神社に関する歴史資料 ☆ 当村の郷倉に現存する”棟札”の記録も加えた 管理人:本田哲康編集 |
| 1377 |
永和3年 |
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8/19奥州塩竃を勧請し、神社を建立。 (「六所神社由緒記」「松平町誌」) |
| 1467 |
応仁元 |
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華嶽祐厳和尚、宮口村に本地堂を造立し、芳樹山宝光寺地蔵院と号し、住僧光室長運知蔵を別当職に命ずる。(「妙昌寺記」「松平町誌」) |
| 1474 |
文明6年 |
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松平左京進親忠、正月15日より六所明神社の再建に取りかかる。「松平町誌」 |
| 1520 |
永正17 |
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松平左京某(長親=信光の孫か)、社殿を再建する。棟札は在るが損耗していて文字は不明である。(「六所神社由緒記」) 宮口村を社領とする。 「松平町誌」 |
| 1527 |
大永7
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野火により 六所神社社殿全焼 |
「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中、松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり」云々。百疋:道閲(五代長親)・五百疋:祐泉(六代信忠)。
この寄進状によって三代信光以来、六代信忠になっても安祥城を根城にして、山間僻地の松平村を領し、六所明神(加茂明神とも称した)を厚く信仰していた。☆大永7(1527)年12月、野火によって焼失した六所神社の社殿を再建するため、松平長親(松平宗家5代)は、その子信忠(松平宗家6代)と共に献金し、松平氏一族へも寄付すなわち奉加を呼びかけた。
注:この時代の大給松平は乗元(?〜1534)・乗正(?〜1541であった。(管理人)
奉加帳はその寄付に添えられた文書である。 「そもそも、当社大明神は、当国鎮守の霊苗、郡村加護の明神なり。なかんずく松平一党の氏神・祖先崇敬の霊社なり。」と記している背景には一族の内紛や家臣団分裂などの状況があった。長親、信忠は六所神社への勧進を求めることによって松平宗家としての主導性と権威を誇示しつつ、改めて松平一族に団結と助力を求める意味があったのだろう。この奉加帳の年次はわからないが、社殿が焼失したという大永7年から祐泉が亡くなった享禄4(1531)年の間のものと考えられる (「松平町誌」)。 |
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「當国加茂郡外下山之郷六所造営御奉賀之事
抑(そもそも)当社大明神は、当国鎮守の霊廟、郡村加護の明神なり、就中(なかんずく)松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり。然らば則ち法施(芳志)を捧げ、神徳護持を蒙り、悉地(本願の成就)を成さん。これに依りて家門繁昌して代々の栄を開き、子孫患い無くして松柏の歳を保たん。爰(ここ)に去る大永七年十二月中旬深更に及び、当社不慮に回禄(火災)せしむ。爾(それ)より以降造営未だ終わらずして年月を経たり。神意を斗(はか)り難く、冥感(神明が心を動かす)恐れあり。若し夫れ御一門の御合力非(あら)ず、御一族の御助成無くば、再興成り難し。且つは先祖謝徳の為めに、随分の奉賀を寄せられ、造営の終功を遂げしめ給(たま)わば、弥(いよいよ)富貴安全にして鎮所満足を求め給う者なり
百疋 道閲 (花押)
五百疋 祐泉 (花押) 」
文中に「加茂郡外下山之郷六所造営」とあるのは、松平地区の豊松学区と滝脇学区の地は室町時代・戦国時代は「外下(とじもやま)山郷と呼ばれたのであって、現在の豊田市坂上町六所神社造営をさしていることは明白である。
また、この奉賀帳を出した道閲は松平氏五代長親、祐泉は同六代信忠(長親の長男)の法名であり、両者の花押と確認されている。」
(「豊田市指定文化財 六所神社造営奉加帳について」 豊田市文化財保護審議会委員 宇野鎮夫 氏 より抜粋) |
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同氏は、ここで以下のように言及している。
「松平氏一族の合力と助成を丁重に、然し強く呼びかけているのこの奉加帳に、六所神社信仰と崇敬の念以上の、或る意味合いを感じるのである。特に山間の一社殿の再建に、松平宗家の五代・六代の当主が、それぞれの献金を示し連著して一族に勧進していることは、単なる奉加帳以上の厳しさを感じる。
そこで、奉加帳の背景として、当時の松平一族の外政的内政的事情を考えてみよう。
1,永正三年(1506)〜五年(1509)、今川勢の西三河侵入。松平氏五代長親は安城城に在ったが、勝ち負けを繰り返し、苦戦の結果これを退けた。以後東の今川氏と西野隣国織田氏は松平家の脅威となった。
2,永正六年(1510)頃に、長親は長男信忠に家督をゆずった。この家督相続につき、家臣が長男信忠派と次男信定(後の桜井松平派)に分裂して争った。
原因は信忠が家臣にも民百姓にも無慈悲として嫌われたためである。結果は、当時の松平氏の長子相続の原則によって、信忠が第六代の座に座ったのであるが、この家督争いは後にまで尾をひいき、ついに信忠は33歳で隠居して、弟信定ではなく長子清康をたてた。
3,大永三年(1523)、清康(家康の祖父)は13歳で松平氏第七代を継いだ。然し、叔父信定は、先に第六代の跡目を争って破れたことを根にもち、宗家に対して不満を抱いた。
若き宗家の当主清康に対して反抗的になり、ひいては松平氏一族や家臣の間にも動揺が生じた。
以上述べたような内外の情勢のために、祖父長親と父信忠は、家督をゆずった後も孫清康の援助のために施政一端を担い、特に寺社に対する支配権を握っていた。
そして松平家宗家の主導権と権威の確立を計ったのであるが、そのためには、何よりも先ず松平一門の団結が必要であった。」 |
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| 永禄年間 |
1558年から1570年までの期間 |
家康は六所大明神を額田郡高宮村(岡崎市明大寺町)に分社(祭神6座の内3座)勧請した。 |
| 1590 |
天正18 |
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家康が関東に入国後、岡崎城主田中兵部大輔長政は、西三河を支配下に入れ、各地の社領を残らず没収した。従って、六所明神も社領を失った。 「松平町誌」 |
| 1597 |
文禄6 |
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石灯籠 松平縫殿頭源朝臣(大給松平氏) ・・・ 上宮 注:この年代の大給松平氏は家乗。(管理人) |
1600
(文禄4年の5年後) |
慶
長
5
年 |
関ヶ原の戦い |
妙昌寺7世法屋順和和尚は、地蔵院を再建して自ら開山となり、本尊を親氏の御誦念仏として、地蔵院前立の腹中にこもらせた。(妙昌寺・「六所神社由緒記」)
6/尾張以東の豊臣大名、徳川家康の会津責めに従軍する。9/15関ヶ原の戦い。この時、松平太郎左右衛門尚栄(9代)、家康軍に従軍し功を上げる。尾張・三河の豊臣大名、加増を受け西国に転出する。10/家康、福島政則(豊臣系)を広島城に移す(49万8200石)。家康の四男武蔵忍城主松平忠吉、清洲城主となる。岡崎の田中吉政、筑後柳川に、吉田城(豊橋)の池田輝政、播磨姫路に転封。丹羽氏次、伊保1万石に入封され、伊保藩が誕生する。 豊臣系大名:岡崎城の田中吉政、筑後柳川へ転封32万5000石。 豊臣系大名:水野忠重横死。息子勝成に刈谷三万石を安堵。同:石川光吉1万2000石改易。同:黒田城(葉栗山木曽川町)の一柳直盛、伊勢神戸へ転封5万石 |
参考:
1601 |
慶
長
6 年 |
高月院、家康により寺領100石が与えられ明治維新までときの将軍からあつい保護を受けた。鳥山精俊、三河大官となる。滝脇松平4代乗次、関ヶ原合戦後に改めて祖父の旧領滝脇村と額田郡内に併せて600石を賜り滝脇に陣屋(滝脇町西洞)を構える。 1/家康、東海道に天馬制を布く。赤坂宿から2里9町、岡崎宿から1里25町の藤川宿は、この年に東海道宿駅に指定される。江戸時代ここにも、飯盛り女がおよそ300人居て、岡崎から男どもが歩いて遊びに行く。「御油や赤坂・吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と、俗謡に歌われた。10/15松平忠吉、清城主となる。尾張一国を支配。 この年、木曽川御囲堤完成。 本多康重、岡崎5万石、本多泰俊、西尾2万石、松平家清、吉田3万石、戸田尊次、田原1万石、水野分長、知多小河1万石、松平忠利、深溝1万石をそれぞれに領した。木曽川堤が完成。家康、関ヶ原の戦い、石田三成を破る。 |
| 1602 |
慶長
7
年 |
家康は、高月院の祖廟参詣の節に、吉木山六所神社に20石の初穂料を献じる。 |
正月、家康は上洛に際して菩提所高月院にある祖先廟所に参拝し、六所神社に高20石を大明神初穂料として下賜した。(「六所神社由緒記」「松平町誌」) 家康、妙昌寺に梁山・曲り村内20石を寄付。 松平(奥平)忠明、上野長根より入封、作手1万7千石を領す。美濃路開かれる。 4/大雨、美濃洪水。人馬多く死ぬ。7/大雨、尾張。 本願寺東西に分かれる(東本願寺創建)。徳川家康、筑波山の知足院中禅寺(筑波神社の前進)に徳川家の祈願書として500石の寺領。 東海道に松並木を植える。この年、三河各村に幕府検地実施。 |
| 1603 |
慶長8年 |
徳川家康(62才)、征夷大将軍となる |
矢作川に大洪水被害甚大(岡崎市史)。衣郷を、東町、大手町、本町、西町、神明町、中町、竹尾町に分割する。 2/徳川家康(62才)、征夷大将軍となる。江戸幕府成立。 至道無難禅師(法孫に白隠禅師)美濃の国関ヶ原に生まれる。彼の家業は、宿場の本陣問屋。 |
| 1607 |
慶長12
年 |
矢作川大洪水・家康、駿府に隠居 |
3/松平忠吉、江戸にて病死。4/26家康第9子徳川義直、甲府より清洲へ転封され「御三家」尾張徳川家が成立。 8/15矢作川大洪水。 家康、駿府に隠居(大御所)。朝鮮使節来日、江戸に来着。以降外交始まる。 |
| 1616 |
元和
2年 |
家康、太政大臣就任。没(75才) |
4/家康没(75才)。7/徳川義直、、駿府より初めて名古屋に入国。武士も移住する(駿府越え)。成瀬之成、足助1.5万石を領す。水野忠清、上野小幡1万石より刈谷に移り2万石を領す。10/人身売買・タバコ栽培の禁。 家康、太政大臣就任。修験者:木喰、金峯山の山上蔵王堂を再興。 |
| 1617 |
元和
3
年 |
六所神社本地造立
(注:神社蔵の棟札による) |
本地造立 願主 皎月院(高月院)覺與
社頭建立 願人 松平太郎左衛門源朝臣由重 并 小衛門 (注:由重の「由」が不鮮明。「郷社六所神社図記」田中長嶺集録により判読した)
| 備考 |
松平由重(?〜1603よししげ)は、親長の二男。松平郷松平家第8代頭首。永禄3年(1560年)、刈谷の戦いで重傷を負って歩行困難となったが、兄が小牧・長久手の戦いで戦死したため家督を継ぐ。その後、家康を始めとした諸将が関東へ移った後も、先祖伝来の松平郷から離れなかったため無禄となった。 |
| 尚 |
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松平尚栄(まつだいらなおよし) 1571年〜1654年
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| 由重の長男。無禄だった幼少時代のことは定かではないが、関ヶ原の戦いに弟・信晴と共に参戦して戦功を上げる。慶長18年(1613年)、家康から恩賞として松平郷において旧領220石が与えられた。大坂の陣では本多正純に属して出陣し、真田軍が家康の本陣を急襲するのを防いだ。その後、新たに230石が与えられ、恩賞金を使用して松平氏館の整備を行った。元和5年(1619)、家康を祀り、松平東照宮を創建した。子に松平信正(養子)、松平重和。 |
|
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西尾藩主本多康俊、近江膳所3万石へ転封。松平成重、下野板橋より西尾に移り2万石を領す。 この年、成瀬正成犬山城主となる。 日光東照宮建立(家康、東照大権現の神号受ける。)。狩野探幽、幕府の絵師となる。3/吉原遊郭開設許可。 英人コックス・朝鮮使来朝。 |
| 1636 |
寛永
13年 |
諸国飢餓 |
三宅康盛、三河国加茂郡入封、衣城(陣屋)に居城する。 この頃、三河国郷帳つくられる。石高は35万石余。熱田社で「熱田万句」を行う。西尾藩主本多俊治、亀山へ移る。西尾藩領、幕府直轄となる。三宅康盛、伊勢亀山より挙母に移り1.2万石を領す。 6/銭座おく、寛永通報鋳造。日光東照宮の大造営完成。 |
| 1638 |
寛永
15年 |
六所神社境内の寶光寺(現・地蔵院)造営
(注:神社蔵の棟札による)
| 備考: |
板には、大工の名前と
領人 宮口村勝屋(庄屋)福津(深津)傳衛門
・・とあった。
この頃の庄屋は深津家であった。 |
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「誉式山(よしき)寶(ほう)光寺 造栄(ぞうえい)三(さんしゅう)賀茂郡御先祖御氏神六所大明神 松平太郎左衛門尉源朝臣重和 同 高月院本誉尊太 」 (注:重和・・・和or扣 不鮮明であったが、調査の末「重和」。松平由重の孫・重和であると思う。)
| 備考:重和 |
松平由重(?〜1603よししげ)の孫。松平郷松平家第10代頭首。 |
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1/深溝藩主板倉重昌、島原の乱の征討大将として原城を攻撃、戦死する。島原の乱終結。下野山川藩主太田資宗、西尾に移り3.5万石を領す。伊保藩主丹羽氏信、美濃岩村2万石に転封。以後、幕領。沢庵(1573〜1645)東海寺の開山となる。 |
| 1650 |
慶安3年 |
・・・棟札不鮮明にて肉眼で判読不能(管理人) |
棟札は在るが文字が損耗して明らかではない。・・・ 郷社六所神社図記・「松平町誌」 |
| 1666 |
寛文
6年 |
1662:諸国大地震(M7.2)・被害甚大 |
江戸町人伏見屋又兵衛、矢作川河口に新田開発を出願。竹腰三信、田原湾岸に石塚新田を開く。
円空、北海道に。円空は、道端に転がる餓死者の山を見たとのこと。 |
| 1667 |
寛文
7年 |
六所神社再興吉木宮一宇 (注:神社蔵の棟札による) |
「再興吉木宮一宇 領主 従五位下源朝臣親世謹建立之 乗次」 堂宇再建
| 備 考 |
松平乗次(1632〜1687のりつぐ)は、三河大給藩の初代藩主。奥殿大給松平家初代。 |
| 松平 乗次(まつだいら のりつぐ):三河大給藩の初代藩主。奥殿藩大給松平家初代。天和3年(1683)7月に江戸城大奥の普請役を命じられ、貞享元年(1684)に大坂定番に任じられると同時に摂津・河内・丹波などで1万石の加増を受けて合計1万6000石の大名となり、大給藩主となった。しかし領地に入部することもなく、在位3年後の貞享4年(1687年)8月30日に死去。享年56。後を長男の乗成が継いだ。 |
|
岩倉山長慶寺:十一面観音(吉ケ入)この地に移る(開山は、寛永元年)。 田原藩領の収納に干し鰯納がみられる。 |
| 1676 |
延宝
4年 |
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7/関東中の鉄砲改め(百姓等の所持禁止)7/東海道諸国大洪水。尾張国特に大水害。(日本史年表)
この年夏、至道無難禅師74歳。「即心記」に加筆し、これを完成とする。示寂。 |
| 1678 |
延宝6年 |
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6月 石灯籠 松平縫殿頭(大給松平氏) ・・・ 下宮 |
| 1683 |
天和3年 |
棟札確認の記載(「郷社六所神社図記」) |
堂宇再建。 (郷社六所神社図記・「松平町誌」による) ・・・棟札不鮮明にて肉眼で判読不能(管理人) |
| 1684 |
貞享
元年 |
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9/名古屋城下人口54,118人家数5,986軒とされる。松平乗次、奥殿藩1.6万石を領す。11/芭蕉七部集「冬の日」。 渋川春海、貞享暦を撰す。 |
| 1687 |
貞享
4年
5月 |
六所神社再興吉木宮
(注:神社蔵の棟札による) |
5月 「再興吉木宮:従五位下縫殿頭源朝臣乗次 」
1/生類憐れみ令を発布。 ニュートン万有引力の法則発見。 |
| 1692 |
元禄
5年
9/12 |
六所神社再興吉木宮下之宮不動
(注:神社蔵の棟札による) |
「 再興吉木下之宮不動一宇:領主 従五位下源朝臣謹建立之乗成」
| 備考 |
松平 乗成(1658〜1703 のりしげ):三河大給藩の第2代藩主。奥殿藩大給松平家2代。松平乗次の長男。 |
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このころから、知立木綿市が始まり、三河木綿の集散地となった。 8〜9/碧海郡内幕領の村々、代官に色物差し出し帳を提出。この頃、「奥の細道」完成。 東大寺大仏殿(現存)、再建。 |
| 1711 |
正徳
1年 |
九州・東海道洪水・風雨。九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔。九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門右に地蔵菩薩 |
3/九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔(角柱)『礼西国三十三所観世音菩薩』。6/24九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門右に地蔵菩薩(舟型立像)。 6/与茂七騒動。8/9尾三地方大洪水(岡崎市史)。8/23岡崎大風雨田畑を害すること6,000石。家400戸破る(矢作川)。11/万石騒動(安房北条藩新役人川井藤左衛門の過酷な検見による年貢増徴策に反対。百姓は国元で訴願したが認められず600余人で江戸藩邸へ門訴。井川は一揆を弾圧し名主6人を入牢。百姓は再度江戸の老中へ駕籠訴を繰り返すが藩は6人の内3人を死罪にする。死罪を知った幕府は百姓の要求を認め、川井を打ち首、藩主屋代忠位ただたかの領地没収。)。 江戸大火。九州・東海道洪水・大風雨。辻で売女取り締まり。近松門左衛門「冥土の飛脚」 朝鮮使節への待遇簡素化。 |
| 1718 |
享保
3年 |
三河・伊那地震(M7.0)。 |
8/坂上町朝日山の六所神社上宮に石灯籠一対『六所大明神御寶前。松平縫殿助源盈乗 奉寄進石灯籠』。矢作川番所、広瀬より細川に移る。 享保の改革(第一段階=通貨統一を命じる。)高松城下大火。 慈雲生まれる。 |
| 1736 |
元文元 |
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玄米2石4斗を六所明神灯明料として増加される。及び翌年さらに玄米7斗8升3合増加して免引される。 |
| 1742 |
寛保
2年 |
六所神社再奐興吉木宮本地 并御修覆
地蔵大菩薩三躯
守護大明神 三躯
(注:神社蔵の棟札による)
及び
金 幣
(「郷社六所神社図記」) |
「六所神社再奐興吉木宮本地 并御修覆 地蔵大菩薩三躯 守護大明神 三躯松平縫殿頭源盈乗 京大仏師法橋竹内右」
| 備考 |
松平 盈乗(1716〜1742 みつのり):三河奥殿藩の第2代藩主。奥殿藩大給松平家4代。
初代藩主・松平乗真の長男として奥殿で生まれる。しかし父は享保元年(1716年)7月5日に死去したため、生まれたばかりで9月5日に家督を継いで第2代藩主となる。盈乗,この年没。 |
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2/吉木山東宮口六所神社(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)、奥の院改築。 寛保の大洪水:大阪周辺に上陸し中部・関東を経て東北地方に出、三陸沖に抜けた台風。京畿その他洪水死者多し。江戸洪水。隅田川などが溢れ各所で浸水。3,900人が溺死。また、信濃では千曲川が溢れ流域住民が大被害。特に小諸町では、武家、町方合わせて500人が流死した。東国大風水害諸城大破。京都積雪1.8〜1.9尺。4/公事方御定書成る。 |
| 1751 |
宝暦
元年 |
京都大地震。越後高田大地震。 |
六所神社上宮に石灯籠一対『奉建御寶前 願主織源親房』。京都大地震。越後高田大地震。 |
| 1779 |
安永
8年 |
六所神社再興吉木宮一宇並小堂宇修復
(注:神社蔵の棟札による)
東国風水害 |
「再興吉木宮一宇並小堂宇修復 従五位下石見守源朝臣松平乗穀」 後の乗穏
| 備考 |
松平 乗穏(1739〜1783 のりやす):三河奥殿藩の第3代藩主。奥殿藩大給松平家5代。第2代藩主・松平盈乗の長男とし、1739年に江戸で生まれる。寛保2年(1742)に父が死去したため、家督を継いで第3代藩主となる。しかし幼少のため、義父の太田資俊の補佐を受けた。宝暦5年(1755)12月18日、従五位下・石見守に叙位・任官する。乗尹は四男。 |
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6/吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)東宮口六所神社、奥の院改築。7/23大風雨、破堤(藩史)。8/川端決壊(上郷町史)。8/25村々大雨、矢作川満水。破堤。田畑水腐(藩史)。11/3度々の出水で破堤。田畑損耗。城内浸水。樹木台へ引っ越し。御用番へ堤修繕費等願書進達。(藩史)。 7/碧海郡高棚村
ほか3カ村で助郷反対運動。10/17旗本領碧海郡安城村庄屋中川覚左衛門、救民を願い出て自害する。8月江戸出水。10月桜島噴火・三原山噴火。12/松前藩、ロシア船の通商要求を拒否。 |
| 1785 |
文明6年 |
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再建 「文字消えて読み難し」郷社六所神社図記による |
| 1790 |
寛政
2年 |
六所神社再興吉木壱宇 (注:神社蔵の棟札による) |
「再興吉木壱宇: 領主 源乗尹謹建立之」
| 備考 |
松平 乗尹(1777〜1818 のりただ):三河奥殿藩の第5代藩主。奥殿藩大給松平家7代。幕末に活躍した永井尚志の実父。 |
1777/7/4、第3代藩主・松平乗穏の四男として江戸で生まれる。父の隠居後は兄の乗友が第4代藩主となっていたが、兄の長男・乗詮が渡辺規綱と名乗って渡辺綱通の養子となっていたため兄の養子となり、寛政2年(1790年)3月6日の兄の隠居で家督を継いで第5代藩主となり、寛政3年(1791年)に従五位下・対馬守に叙位・任官し、寛政5年(1793年)に主水正に遷任した。
しかし病弱であり、藩政の実権は隠居した兄に握られ、自らは日光祭祀奉行や江戸城門番役、大坂加番などを歴任しただけにとどまった。享和2年(1802年)12月2日に隠居し、家督は12月6日に甥で養子の乗羨が継ぐこととなった。
文化13年(1816年)5月に出家して木斎と号した。文政元年(1818年)5月23日、奥殿で死去。享年42。 |
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2/岡崎藩藩医荻須恕因は名古屋の野村立栄を訪問。7/同じく、荻須の門人、碧海郡法性寺村(安城)の本多良作(荻須元良と同一人物=文化13年、法性寺村から堀之内村へ「出医師」となる)が訪問。 5/寛政異学の禁。藩校、多くできる。8/19伊賀八幡宮石垣、上里、西熊村等洪水にて壊れる。(矢作川)。 11/27刈谷藩の先納金等について連日農民集会。この年暮れ一揆。藩主は謹慎、藩領高13,000石を福島藩領・幕領とする。 江戸の無宿人の授産・厚生施設「人足寄場」、隅田川の河口にある島の一角(今の東京都中央区)に造られた。 |
| 1808 |
文化
5年 |
5月上方洪水。
摂津・河内水害。 |
1/坂上町朝日山の六所神社上宮南に、石灯籠『奉献燈篭御神燈。伊勢神宮遙拝所』。 3/22九久平町寺前15の吉祥院山門左に地蔵菩薩(丸彫立像)『大源周明和尚』。7/25大風雨、、潰家26軒、半壊22軒、怪我人男女35人、内2人即死。矢作川破堤。水腐。(藩史)。 8月八幡祭で永代橋落ち500人死亡。 4/間宮林蔵樺太探検。8/フェートン号事件。江戸町人5人を町方御用達に登用。 |
| 1827 |
文政
10年 |
矢作川洪水(岡崎市史)
翌年も洪水 |
5/21矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。 8/碧海郡和泉村の都築弥厚、加茂・碧海両郡一体開拓のため、矢作分水を計画し、願い出る。この年、伊藤圭介(名古屋町医の子。蘭方医・植物学者)、長崎でシーボルトに医学・博物学を学ぶ。三河の羽田野敬雄(三河吉田田町神明、羽田村八幡両社の神主)・吉田熊野神社神主鈴木重野・舞木八幡宮(岡崎)神主竹尾正寛、平田篤胤門・平田大平に入門する。 頼山陽「日本外史」を著す。西郷隆盛(薩摩藩士)生まれる。槍ヶ岳(標高3180m)、播隆(1786年一向宗の家に生まれる。19才で出家。)長年の苦心の末、阿弥陀仏・観世音菩薩・文殊師利菩薩を安置する。小林一茶没(65)。ジョン万次郎生まれる(1827〜1898)。 |
| 1832 |
天保
3年 |
天保の飢餓始まる
大内町三本松の松平乗元墓に石灯籠一対 |
大内町三本松の松平乗元墓に石灯籠一対。『大給主 松平石見守源乗利之立』。
| 備考 |
松平 乗利( のりとし):三河奥殿藩の第7代藩主。奥殿藩大給松平家9代。 |
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5/幕府役人平岡彦兵衛、加茂・碧海両郡の新開拓見込み地を検分。9/18大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。12/設楽郡中設楽村などの商人仲間31人、柿、楮(こうぞ)、たばこなどの仕入れについて議定する。これより同郡月村など6カ村(振草七郷)と争論がはじまる。 天保の飢餓始まる。鼠小僧次郎吉死刑。頼山陽没(53)。 |
| 1836 |
天保
7年 |
鴨(かも)の騒動・大内町三本松の松平乗元の墓に、手洗石
諸国凶作で米価高騰。
伊豆地震(M5〜6)。
8月諸国洪水 |
3/大内町三本松の松平乗元の墓に、手洗石(角型)『松平石見守乗利造立之』
1/寺津八幡宮神宮渡辺政香「参河志」を著す。 8/13暴風雨、三河一帯に被害。米価高騰、物価高騰米の買い占めによる生活困難。 9/16鴨の騒動
同じ頃幡豆郡地方でも打ち壊し等おこる(頭取:下河内村松平辰蔵)。 諸国凶作で米価高騰。一揆・打ち壊し。洪水後、全国各地で飢餓・死者多し(奥羽地方最も甚だしく死者50万人)。江戸辻斬り強盗横行。 国定忠治は、私財を投じて飢民救済したので、赤城山麓では一人の餓死者も出なかったと羽倉簡堂(忠治を取り締まる立場の者)が記録している。 |
| 1841 |
天保
12年 |
天保の改革
8/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。 坂上町丸塚61-1の観音堂に念仏塔 |
9/坂上町丸塚61-1の観音堂に念仏塔(平石)。 加茂郡羽明村(豊松町)名主河合金右衛門、九久平・足助間の水路(巴川)開さくを幕府に出願。 8/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。 伊藤博文(〜1909)生まれる。10/渡辺華山自刃・没(49)。5/天保の改革はじまる。7/異国船打ち払い令緩和。 |
| 1849 |
嘉永
2年 |
再興 吉木下宮不動一宇
(注:神社蔵の棟札による) |
領主・松平石見守 従五位源朝臣建立之乗利
| 備考 |
松平 乗利( のりとし):三河奥殿藩の第7代藩主。奥殿藩大給松平家9代。 |
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| 1851 |
寛永
4年 |
助郷免除の嘆願 |
| 助郷赦免の陳情文 六所神社蔵 |
乍恐以書付奉願上候 (宇野鎮夫氏解読) 一 当村之儀は東南に高山在之右山より出申候清水ノ以田方へ引申候間 実法悪敷其上猪鹿猿等出実
法最中ヲあらし申候間取入間違難渋仕候 一 去ル戊年凶作処削申上候通り冷水引申候田地ニ付別而悪敷一向実法不申村相続之難出来ニ付甚だ 難渋仕候 前奉書申上候通り困窮村方之儀ニ付何卒御慈悲ヲ以助郷候儀御赦免被下置候様奉願上候以上 嘉永四年辛亥五月 松平岩見守領分 三州加茂郡宮口村 百姓代
藤吉 印 組頭 又左エ門 印 同 吉兵衛 印 庄屋
庄兵衛 印
福井柳右衛門 様 桑原 金輔 様
(注:庄兵衛は、2年後に没している。1853.10.17没 戒名 了覚 没年齢不詳・妻の年齢は35歳。次代の庄屋は綱平16歳) |
| 助郷赦免の陳情文(要約) 三州加茂郡宮口村 |
「恐れながら書き付けを以て願い上げ奉(たてまつ)ります 一 当村(宮口村)におきましては東南の高山が在り,この右の山(吉木山)から清水を 田へ引いているのでありますが、稲の実りが悪い上に実りの最中の収穫前に猪鹿猿 が出て田を荒らすので予定の収入が無く常に難渋しています。 一 特に去年より凶作の報告をしましたとおり、山からの冷水を引いての水田は収入 が急減し、一向に実らず村民の生活が成り立たないほどに甚だしいく困窮しており ます。 前述の通り村方が皆困っておりますので、何卒お慈悲を以て助郷の勤めを免除して下さるようお願い申し上げ奉(たてまつ)ります。」 豊田市坂上町 六所神社 郷倉蔵 管理人 意訳  注:右の山(六所明神)の霊山からの水で米を作っていることをことさらに加えていることが、後世の村民として切実さが意味深く感じられる。宮口村の助郷免除の嘆願の2年後に庄屋は没している。その息子は16歳程で庄屋を命ぜられた。 注:「一向実法不申村相続之難出来ニ付・・」・・一向に実らずと申し、村民が生活が出来ず相続も難かしくなった という訴えは、前後の社会の様子から推測し想像に難くない。このときの庄屋の年齢は不明であるが、妻は三十三歳前後、息子の綱平は十三歳前後であった。翌年、庄屋を息子・綱平に譲った。 (年齢は、後年、綱平が書き残した累代の記録から、母親の死亡時の年齢が判明したため、それらの記録から推計した。) 15年前には「鴨の騒動」があった。「鴨の騒動」の2年後に、1月幡豆郡寺津村で助郷役免除を嘆願(平地山騒動)。 相応の覚悟をして陳情に及んだと思われる。 ・・・管理人 |
江戸時代に陸の主要通路として東海道・中山道・奥羽街道・日光街道の五街道が開かれ、その宿駅には特定の人馬が常備されて幕府の公用旅行者または特権旅行者の用に供された。しかし、この常備の人馬では不足する場合が多かったので政府は附近の村々から石高に応じて一定数の人馬を徴発してこれを援助させた。この援助をすること或いは援助を命ぜられた郷村を助郷といった。徴発される人馬に対しては御定賃金が支払われたが、それは助郷から宿場までの往復については何らの報酬もなく、宿場から次の宿場までの賃金に過ぎなかったし、はなはだしい時には無賃の場合さえあった。  昔のことであるから旅行は季候のよい春秋が多かったであろう。然しそれは農民とっては最も重要な農繁期である。人馬が出なければその代わりに金を出した助郷に支払われる公定賃金は非常に安いのでその差額は村で負担しなければならなかった。而も次代が下るにともなって街道の交通ははげしくなったので、助郷人足の数もうなぎ上りに上昇した。従って農民の迷惑は想像以上であり、江戸時代の街道近くの村財政に於いて助郷の費用は非常に大きな部分を占めていたと思われる。 「松平広報 ・・文化財めぐり」 昭和44年12月以降 宇野鎮夫氏 より |
3/名古屋の株仲間ほぼ復興される。4/「五拾壱加上:五拾壱ケ条」平勝寺梅童(住職か?)により写書されて今も残る。(杉本時一氏蔵) 江戸に辻斬り多くその切り捨てを許す。ジョン万次郎上陸す。
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| 1852 |
嘉永 5年 |
7月京都暴風雨諸国被害多し。
開国・尊皇攘夷運動・討幕 |
6/九久平簗場の松生島弁財天に石灯籠(一部新しい)。7/21翌日にかけて大風雨。8/16大雨。8/22大風(矢作川)。8/8碧海郡天白地内矢作堤破壊。幡豆郡高落地内でも決壊。(矢作川)。 2/武蔵大森の大砲演習場完成。 5月江戸城西丸全焼。明治天皇誕生。8/蘭商館長、米国船来航計画を告げ、鎖国の危険を説く。 |
| 1855 |
安政
2年 |
安政南海地震(M8.4)。10/2江戸大地震。林添町寺脇・晴暗寺西に馬頭観音 |
8/ 金灯籠 大津村中根平丘衛 建立 ・・・ 御滝場 ?
林添町寺脇・晴暗寺西に馬頭観音(舟形立像)。 2/尾張藩、米穂の他所積み出し禁ず。7/26この日より二日間大雨。細川堤切れる(矢作川)。7/29矢作川洪水(1丈8尺)、堤8カ所、その他各所に破堤。田畑水腐。救助のために粥を下す。家屋4軒流失、本漬19戸半漬3軒、その他66軒浸水(郡誌)。8/20村々大風雨。漬家5軒、半漬12軒。矢作川堤防8カ所決壊。倒木66本(藩史)。これにより高潮で伊勢湾沿岸の干拓新田堤防91か所破壊される。11/尾張藩、他所米の移入を禁ず。 12/日蘭親和条約。幕府、洋学所を設置。 |
| 1858 |
安政
5年 |
六所神社再興吉木宮御本社一宇 并 御修復 守護大明神 地蔵大菩薩
金六両 永貳百貳拾七文差加
(注:神社蔵の棟札による) |
「六所神社再興吉木宮御本社一宇 并 御修復:従五位下松平兵部少輔源朝臣乗謨
金六両 永貳百貳拾七文差加 松平太郎左衛門源頼載」
| 備考 |
大給 恒(1839〜1910おぎゅう ゆずる):三河奥殿藩の第8代藩主。のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主。奥殿藩大給松平家10代。江戸幕府の老中、若年寄。明治時代の政治家・伯爵。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。旧名は松平
乗謨(まつだいら のりかた)。 |
| 備考:この頃の庄屋は、本田綱平22歳 |
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東海その他地震。4/井伊直弼、大老となる。6/19日米修好通商条約調印。これは、尾張藩の藩論を二分した。これを不可とする尾張藩主徳川慶勝、大老井伊直弼等により謹慎。安政の大獄(〜59)。 7/蘭・露・英と調印。9/仏と調印。 8〜9月江戸コレラ大流行(2.8万人死亡)。11月江戸大火。福沢諭吉、蘭学塾を開く。 大原幽学没。 |
| 1862 |
文久
2年 |
六所神社吉木宮御鳥居
金壱両 永百六拾壱文七分差加
(注:神社蔵の棟札による) |
「六所神社吉木宮御鳥居 金壱両 永百六拾壱文七分差加従五位下松平兵部少輔源朝臣乗謨 」
| 備考 |
大給 恒(1839〜1910おぎゅう ゆずる):旧名は松平
乗謨(まつだいら のりかた)。 |
| 松平乗利の長男として生まれる。幼少時から聡明で知られ、西洋事情にも通じていたとされる。嘉永(1852)3月8日、父の隠居により家督を継いで奥殿藩の第8代藩主となる。6月には竹橋御門番に任じられた。 嘉永6年、ペリーの来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成した。11月に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。万延元年(1860)には日光祭礼奉行を務めた。文久3年(1863)1月には番頭頭に任じられる。8月には若年寄に任じられた。9月11日、藩庁を手狭な奥殿藩から領地の多くが存在する信濃佐久郡の田野口(現在の佐久市)に移転し、新たに龍岡城を建設した。 その後は幕政に参与したが、元治元年(1864)6月に開港問題などで松平慶永と対立してしまい、若年寄を罷免された。慶応元年(1865)4月、三河で信濃移転に対する反対運動が起こる。5月には陸軍奉行として幕政への復帰を果たした。その後、7月に若年寄次席、12月には若年寄となり、慶応2年6月には老中に栄進し、10月からは朝廷との交渉役を務めている。11月に正四位下に昇叙し、12月には陸軍総裁に任じられた。 |
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7/26大雨、屋敷一円浸水。菅生川は格段に水多し(矢作川)。天白・高落西浅井破堤(西尾市史)。1月江戸火災多し。1/坂下門外の変。3/24坂本龍馬脱藩。故郷をでる。 4/伏見寺田屋事件。4月以降麻疹流行。4/第二次東禅寺事件。8/生麦事件(幕府に幕政改革を行わせた津島久光一行は江戸からの帰途、神奈川の近郊生麦村(横浜市鶴見区)で、騎馬の英人と出会った際薩摩藩士が行列に対し無礼があったとして商人リチャードソンを殺害、他の2人に重傷を負わせる。英は薩摩藩に謝罪と犯人処罰・償金支払いを求め、幕府は10万ポンド払ったが、薩摩藩は拒否。翌年、薩英戦争後薩摩謝罪。罰金を支払ったが結局、犯人を処罰しなかった。)。12/英国公使館焼き討ち。 京都無頼の輩横行。江戸市中浪人徘徊し辻斬り、豪商を略奪。 |
| 1903 |
明治
36
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八ケ峰神社雨覆修繕 |
9月19日
社司 月山峰太郎 社掌 酒井高吉
| 備考 |
記載によれば・・・この時の氏子惣代 |
| 酒井重五郎 |
| 杉山鈴太郎 (杉山繁好氏曾祖父) |
| 河合庄五郎 |
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| 籠殿(こもりでん)屋根替修復 |
| 御輿殿(みこしでん)屋根替修覆 |
| 1909 |
明治
42 |
熱田社本殿御屋根修覆 |
5月5日
社司 月山峰太郎 社掌 酒井高吉
| 備考 |
記載によれば・・・この時の氏子惣代 |
| 酒井重五郎 |
| 浦野秀次郎(浦野弘・一郎氏の祖父) |
| 酒井兼松 |
| 和田梅松(和田鋭一・良一氏の祖父) |
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