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                    飢餓の歴史      ご案内    本宮への道・お滝
 編集・管理: 本 田 哲 康(累代同村に在住する氏子の一人)
 ☆ 神社の由緒について ☆  
   明治34年11月3日に、「妙昌寺由緒」から写し取ったものである。

 翌年、左の表紙の文書が編纂された。

 
明治三十五年一月是ヲ綴

 郷社六所神社氏子惣代
         酒井重五郎
         酒井 良吉
         杉山鈴太郎
   社掌   酒井 高吉

    ********
        ・・・となっている。

 では、自己流ではあるがそのさわりを要約しながら、読み進んでみたい。

  

 『それ六所大明神はご本地宝光地蔵大菩薩にして、徳川親氏公の御誦
(ごしょう)念仏安阿弥定朝の御作なり。
 その由緒を尋ぬるに、曽
(かつ)て親氏公は・・』
 
☆ 六所山のこと ☆
  「松平広報   ・・文化財めぐり」 宇野鎮夫氏
          
昭和44年12月号以降より抜粋 
 故吉田東伍博士の「日本地名大辞典」には、六所山について「松平村の東嶺にして群山の間の傑出なれど左のみ高峻なるにはあらず。六所明神と称する一祠あり。故に明神山とも云う。本名は蜂ケ峰とす。『大三河誌』に、松平親氏此の地に居住の後、その故国上州なる徳川の氏神塩釜六所明神を蜂ケ峰に勧請すると云う伝説を採録せり。その実詳らかならず。」とある。
 古伝説では此の山を吉木山とも云う。それは日本武尊が蝦夷征伐の砌
(みぎ)り暫く矢作川の辺りに逗留されたが、その節此の山から里人が矢の材料として良き竹を撰んで献上したところ尊は大いに喜び給い『吉き木哉』を仰せ給う。即ち此の山一帯を吉木山と称するに至ったと云うのである。
                  ・・・・(中略)・・・・。
 なお奥の院辺には行基菩薩が加藤影左衛門を誘って陶器を焼いたと伝わる跡があって皿小鉢類が多く出た。現在これを保管している里人もあるだろうと思う。
 本稿は岡崎市史第一巻及び第七巻に負うところが多い。

 故吉田東伍博士の「日本地名大辞典」に、六所山について「松平村の東嶺にある群山の中の傑出した山であるけれども、それだけでこの山が高峻だと言うのではない。

 山には六所明神と称し祀られる神社がある。それ故にこの山を明神山ともいう。
 本来この山は、名を蜂ケ峰と称していた。

 『大三河誌』によると、松平親氏がこの地に居住した後、彼の出身国・上州の徳川の氏神塩釜六所明神を、この蜂ケ峰に勧請したという伝説を採録したのである。しかし、伝説の域を出ず、歴史的な事実は詳
(つまび)らかではない。」 とあった。

 古
(いにしえ)の伝説によるとこの山を吉木山ともいう。その故は日本武尊が蝦夷征伐に臨まれた時に、しばらく矢作川の辺(あた)りに逗留(とうりゅう)されたが、その時にこの山から村人が矢の材料として優れた竹(矢竹)を献上したところ、日本武尊は大いに喜ばれ『吉き木哉』と仰っしゃった。

 そんな理由でこの山一帯を吉木山と称するに至ったと云うのである。         ・・・・・
一部管理人意訳 
  注: 『吉き木哉』は、矢竹であった。
 そこで六所山とその周辺を歩いて探してみた。
 竹は、およそ200種類あるという。その中で矢の材料にする「矢竹
(やだけ)」は、中々見つからなかった。
 矢竹は、枝の出るところが上の方からである。幹の部分から枝が出ると、その部分が凹んで円筒状ではなくなる。また、節のところがスッキリと平直である。大部分は真っ直ぐで凹凸が無く太さも変わらない。所謂、「節くれ立」たないのである。
 そこのところが他の竹と違う。じっくりと見れば、成る程と思う。矢を作るには最適である。
 弓矢が最良の武器であった時代には、この矢竹は貴重な資材であったはずであろう。
 吉木山の参道には、この竹は見あたらなかった。しかし、下宮にはあった。
 拝殿の裏に生えていた。
 古
(いにしえ)の里人の祖先の誰かが、山からこの場所に株を運んで植えたに違いない。大切に管理し保存したいモノである。
             ・・・・・
管理人
  ☆ 今の様子 ☆ 

 ここは、愛知県豊田市坂上町の「六所神社・本宮」である。昔は、松平町大字東宮口。
 
村の氏子二人が毎月二度、上宮(うえみや)清掃の当番に当たる。

 以下、三年間の写真をまとめてご報告いたします。 

 これは、2002年、12月15日であった。

 標高は606m。里は曇り空であったが、雪は降っていなかった。
 山道をトラックでふもとまで登って、鳥居の所まで、急な階段を上る。
 登って一息ついたところ左手に、旧山道がある。
 誰か知らないが、信者がお百度を踏まれたのか?細い竹串に白い紙が付けられて、祈願の跡がうかがわれた。


正面を見ると、このように鳥居がそびえるように立っている。
 2002年、12月15日。 この日撮った写真は、8〜9割がこのように白く霞んでしまった。  
 更に前に進む。息が切れるほどに、急な階段であった。
 二人の会話はとぎれがちである。

 鳥居をくぐって、本殿を望む。

 肉眼では、これ程霞んだ光景ではなかった?!

 地面は、うっすらと白かった。


 2002年12月15日であった。
2004年5月1日は、すっかりと春であった。






出典:「献馬大将」豊田市教育委員会 

 「郷社六所神社図記」を引用したものと思われる。
 

 この図の左下の注釈には「安政五年の建築にして明治42年に修繕を加ふ」と記してあるが、安政五年は1858年。郷倉に保存されていた棟札によって確認できた。
(2010.7)
 明治42年の修繕は、下の写真か?

       ・・・管理人
 猿田彦神(さるたひこのかみ)事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)岐神(くなどのかみ)日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。
猿田彦神

(さるたひこのかみ)

 サルタヒコは、日本神話に登場する古事記および日本書紀天孫降臨の段に登場し(日本書紀は第一の一書)、
古事記では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、日本書紀では猿田彦命と表記する。

             
 また、『猿田彦神』 http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/sarudahiko.htmlによれば、
 「猿田彦神は、多くの神々のなかでも最高にユニークな部類に入る神である。何がユニークかといえば、まずその容貌についての印象が実にはっきりしていて、しかも非常に特異であるということだ。日本神話に登場する神々で、この神ほど詳しく顔つきが説明されている例はほかにない。神話には、次のように記されている。
 「鼻の長さ七咫(ナナアタ=約1.2m)もあり、背の丈は七尺(約2.1m)あまりで身長は七尋(ナナヒロ=約12.6m)近く。しかも、口と尻は明るく光っていて、目は八咫鏡のように円く大きくて真っ赤な酸漿(ホオズキ)のように照り輝いている」
 いうまでもなくこのイメージは猿の化け物といった異形であり、いうまでもなくこのイメージは猿の化け物といった異形であり、こういう独特な味を持った神さまは、八百万の神のなかでも数少ない。」・・と記述されている(抜粋)。
事勝国勝長狭神

(ことかつくにかつながさのかみ)



親氏公が、勧請した神々の
中にこの神が在ることは、
公の素姓を暗示させる
何かを感じるのは、
管理人だけであろうか?
  『塩土老翁神』 http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/siotuti.html によれば
 事勝国勝長狭神は、塩土老翁神(しおつちおじのかみ)の別名という。
 神格は、海の神、呪術・予言の神、塩の神。神社:塩竈神社、塩津神社。
 「神話に登場する塩土老翁神は、”未知の国(場所)”に関する貴重な情報提供者の役割を果たしている。
 船が安全に航海するためには、潮の流れや天候の変化などを正確に知ることが欠かせない。古来、航海関係者はそうした海上で遭遇する”未知の情報”を司る海の神に安全を祈った。そうした信仰の対象になったのが、航海を守護する情報の神である塩土老翁神であった。」とあった(抜粋)。
             
 事勝国勝神は、伊奘諾尊の子で、またの名を塩土老翁という。
 つまり、事勝国勝神は、瓊々杵尊が降臨した時に、最初の土地を献上した神であるということになり、瓊々杵尊にとっては大叔父にあたるというわけです。  From 『胡宮神社』 http://www.norichan.jp/jinja/renai2/konomiya.htm
岐神

(くなどのかみ)

 岐の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)とも呼ばれる。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。
 『日本書紀』では、泉津平坂(よもつひらさか)でイザナミが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から岐神(ふなどのかみ)、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。『古事記』でも、上述のイザナキの禊の場面で、最初に投げた杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)が化生している。

日本武尊

(やまとたけるのかみ)

 日本武尊(やまとたけるのみこと、『古事記』では倭建命と表記)こと小碓命(おうすのみこと)、またの名を日本童男(やまとおぐな)は、景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる人物。日本神話では英雄として登場する。
 記紀の記述によれば、2世紀頃に存在したとされる。実際には、4世紀から6,7世紀頃の複数の大和の英雄を具現化した架空の人物(津田左右吉説)という見方もある。

主として、出典は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による
何を記念したものか不明。
木製の塀の中(左)。



明治42年の改修記念写真かと思われる。(右)

(蔵:下宮境内の郷倉)
更に近づいて、格子戸を開ける。

中の清掃が、先ず第一番。


歴史参考:1
 1377年永和3年:8/19'松平太郎左衛門親氏、吉木山(又は芳樹山)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。
    LINK塩竈神社
 ご本殿を芳樹の宮と名付け、六所大明神と称した。 御祭神は、猿田彦神
(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)である。
 それまで、吉木山は、そのものを神体山として、古往は大山祗神を祀り、産土神として奉拝していた。その後は、隠居神として同じ山頂の東北にある峰に遷り、「蜂ケ峰神社」となった。


   写真の右は、本宮本殿である。

この写真は、2003年11月のものだ。
氏子
(うじこ)以外のものは、内に入(はい)れない。

右は中の様子である。



上の写真は、その前の獅子。
 上の写真は、年代未確認であるが、「郷社六所神社図記」による。
 

 
「郷社六所神社図記」


左右の獅子が守っている
 獅子の姿・顔は、素朴である。 材質は柔らかそうな御影石。 製造した年代は不明である。
歴史参考:2
 1524年大永4年:清康が岡崎城に入城するに際し、松平六所明神
を岡崎城下に氏神(うじがみ)として勧進した。

(松平六所明神は、京都の加茂明神の神紋を用いて、加茂明神とも称された。
 また、土地の豪族松平氏も加茂明神の神紋を戴き、松平氏の家紋として氏子・氏神の関係となり神に奉祀していた。)

 なお、このときには、
衣冠束帯の神像三体、地蔵三体を遷御した。

<注:妙昌寺の古文書に寄れば、元は六地蔵があったとのことである。今、三体は里の地蔵院にある。
 『見ると眼がつぶれる』と言われ、昔から大切にされ木箱に収まっている>
今、
 この場所に三対の石灯籠。
 ここから出た所に一対。
 そして、
 この境内から、参道を200mほど下った所に、伊勢神宮を遙拝する場所がある。ここに一対。
 下の参考資料:3 E の 金燈籠は、一番下の「御滝」の所にあったものかと思ったが、その後表された「郷社六所神社図記」にはその面影がない。
 大正時代に撮影された写真に認めることができる(郷倉に保管)。 戦後は、礎石が在るのみである。

灯籠の年代は古い。この間に実生の紅葉(もみじ)があった。
紅葉の根が太くなって灯籠を傾けてしまったので、伐採した。

歴史参考:3・灯籠 ・・・・・・・ 出典 「郷社六所神社図記」

@ 文禄6庚亥年
(?)9月19日 松平縫殿頭源朝臣寄進 ? 文禄年間は4年までしかない!?
  
(しかし、「松平町誌」には、文禄6年として記載がある。)
  永禄6年癸亥(1563)は、家康がほぼ天下統一をなした年である。?ひょっとしたら、この年かも知れない。
  だが、三河一向一揆が起こって約半年1654年まで続いている。 また、庚亥
(かのえ・い)の年ではない。

A 享保3戊戌年
(1718)8月 石燈籠  松平縫殿頭源朝臣盈乗
B 寛永4辛未年
(1751)2月 石燈籠  松平伊織源親房 寄進<この年、宝暦に改む>
C 延宝6年戊午
(1676)6月  石燈籠  松平縫殿頭   寄進
D 文化5年戊辰
(1808)3月  石燈籠  松平太郎左右衛門尉源朝臣寄進
E 安政2年
(1855)8月19日 金燈籠  大津村中根平兵衛 寄進・・・・と、記述があった。
      
年代順に記されていないのは、おそらく、本宮の一番奥から設置場所の順番に記述されているのかもしれない(未確認)。
☆ 補足 : 神社に関する歴史資料 ☆      当村の郷倉に現存する”棟札”の記録も加えた     管理人:本田哲康編集   
1377  永和3年     8/19奥州塩竃を勧請し、神社を建立。 (「六所神社由緒記」「松平町誌」)
1467  応仁元     華嶽祐厳和尚、宮口村に本地堂を造立し、芳樹山宝光寺地蔵院と号し、住僧光室長運知蔵を別当職に命ずる。(「妙昌寺記」「松平町誌」)
1474  文明6年     松平左京進親忠、正月15日より六所明神社の再建に取りかかる。「松平町誌」
1520  永正17    松平左京某(長親=信光の孫か)、社殿を再建する。棟札は在るが損耗していて文字は不明である。(「六所神社由緒記」)  宮口村を社領とする。 「松平町誌」
 1527 大永7
 
 野火により
六所神社社殿全焼
  「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中、松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり」云々。百疋:道閲(五代長親)・五百疋:祐泉(六代信忠)。
 この寄進状によって三代信光以来、六代信忠になっても安祥城を根城にして、山間僻地の松平村を領し、六所明神(加茂明神とも称した)を厚く信仰していた。☆大永7(1527)年12月、野火によって焼失した六所神社の社殿を再建するため、松平長親(松平宗家5代)は、その子信忠(松平宗家6代)と共に献金し、松平氏一族へも寄付すなわち奉加を呼びかけた。
    注:この時代の大給松平は乗元(?〜1534)・乗正(?〜1541であった。(管理人)
 奉加帳はその寄付に添えられた文書である。 「そもそも、当社大明神は、当国鎮守の霊苗、郡村加護の明神なり。なかんずく松平一党の氏神・祖先崇敬の霊社なり。」と記している背景には一族の内紛や家臣団分裂などの状況があった。長親、信忠は六所神社への勧進を求めることによって松平宗家としての主導性と権威を誇示しつつ、改めて松平一族に団結と助力を求める意味があったのだろう。この奉加帳の年次はわからないが、社殿が焼失したという大永7年から祐泉が亡くなった享禄4(1531)年の間のものと考えられる (「松平町誌」)。
      「當国加茂郡外下山之郷六所造営御奉賀之事
 抑
(そもそも)当社大明神は、当国鎮守の霊廟、郡村加護の明神なり、就中(なかんずく)松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり。然らば則ち法施(芳志)を捧げ、神徳護持を蒙り、悉地(本願の成就)を成さん。これに依りて家門繁昌して代々の栄を開き、子孫患い無くして松柏の歳を保たん。爰(ここ)に去る大永七年十二月中旬深更に及び、当社不慮に回禄(火災)せしむ。爾(それ)より以降造営未だ終わらずして年月を経たり。神意を斗(はか)り難く、冥感(神明が心を動かす)恐れあり。若し夫れ御一門の御合力非(あら)ず、御一族の御助成無くば、再興成り難し。且つは先祖謝徳の為めに、随分の奉賀を寄せられ、造営の終功を遂げしめ給(たま)わば、弥(いよいよ)富貴安全にして鎮所満足を求め給う者なり
     百疋             道閲 
(花押)
     五百疋            祐泉 
(花押)
 」
 文中に「加茂郡外下山之郷六所造営」とあるのは、松平地区の豊松学区と滝脇学区の地は室町時代・戦国時代は「外下(とじもやま)山郷と呼ばれたのであって、現在の豊田市坂上町六所神社造営をさしていることは明白である。
 また、この奉賀帳を出した道閲は松平氏五代長親、祐泉は同六代信忠(長親の長男)の法名であり、両者の花押と確認されている。」
      (「豊田市指定文化財 六所神社造営奉加帳について」 豊田市文化財保護審議会委員 宇野鎮夫 氏 より抜粋)
    同氏は、ここで以下のように言及している。
 「松平氏一族の合力と助成を丁重に、然し強く呼びかけているのこの奉加帳に、六所神社信仰と崇敬の念以上の、或る意味合いを感じるのである。特に山間の一社殿の再建に、松平宗家の五代・六代の当主が、それぞれの献金を示し連著して一族に勧進していることは、単なる奉加帳以上の厳しさを感じる。
 そこで、奉加帳の背景として、当時の松平一族の外政的内政的事情を考えてみよう。
 1,永正三年(1506)〜五年(1509)、今川勢の西三河侵入。松平氏五代長親は安城城に在ったが、勝ち負けを繰り返し、苦戦の結果これを退けた。以後東の今川氏と西野隣国織田氏は松平家の脅威となった。
 2,永正六年(1510)頃に、長親は長男信忠に家督をゆずった。この家督相続につき、家臣が長男信忠派と次男信定(後の桜井松平派)に分裂して争った。
   原因は信忠が家臣にも民百姓にも無慈悲として嫌われたためである。結果は、当時の松平氏の長子相続の原則によって、信忠が第六代の座に座ったのであるが、この家督争いは後にまで尾をひいき、ついに信忠は33歳で隠居して、弟信定ではなく長子清康をたてた。
 3,大永三年(1523)、清康(家康の祖父)は13歳で松平氏第七代を継いだ。然し、叔父信定は、先に第六代の跡目を争って破れたことを根にもち、宗家に対して不満を抱いた。
   若き宗家の当主清康に対して反抗的になり、ひいては松平氏一族や家臣の間にも動揺が生じた。
 以上述べたような内外の情勢のために、祖父長親と父信忠は、家督をゆずった後も孫清康の援助のために施政一端を担い、特に寺社に対する支配権を握っていた。
 そして松平家宗家の主導権と権威の確立を計ったのであるが、そのためには、何よりも先ず松平一門の団結が必要であった。」
 永禄年間  1558年から1570年までの期間   家康は六所大明神を額田郡高宮村(岡崎市明大寺町)に分社(祭神6座の内3座)勧請した。
1590  天正18     家康が関東に入国後、岡崎城主田中兵部大輔長政は、西三河を支配下に入れ、各地の社領を残らず没収した。従って、六所明神も社領を失った。   「松平町誌」
1597  文禄6    石灯籠  松平縫殿頭源朝臣(大給松平氏) ・・・ 上宮  注:この年代の大給松平氏は家乗。(管理人)
1600

(文禄4年の5年後)


5
関ヶ原の戦い  妙昌寺7世法屋順和和尚は、地蔵院を再建して自ら開山となり、本尊を親氏の御誦念仏として、地蔵院前立の腹中にこもらせた。(妙昌寺・「六所神社由緒記」)
 6/尾張以東の豊臣大名、徳川家康の会津責めに従軍する。9/15関ヶ原の戦い。この時、松平太郎左右衛門尚栄(9代)、家康軍に従軍し功を上げる。尾張・三河の豊臣大名、加増を受け西国に転出する。10/家康、福島政則(豊臣系)を広島城に移す(49万8200石)。家康の四男武蔵忍城主松平忠吉、清洲城主となる。岡崎の田中吉政、筑後柳川に、吉田城(豊橋)の池田輝政、播磨姫路に転封。丹羽氏次、伊保1万石に入封され、伊保藩が誕生する。  豊臣系大名:岡崎城の田中吉政、筑後柳川へ転封32万5000石。 豊臣系大名:水野忠重横死。息子勝成に刈谷三万石を安堵。同:石川光吉1万2000石改易。同:黒田城(葉栗山木曽川町)の一柳直盛、伊勢神戸へ転封5万石
参考:

1601


6
 高月院、家康により寺領100石が与えられ明治維新までときの将軍からあつい保護を受けた。鳥山精俊、三河大官となる。滝脇松平4代乗次、関ヶ原合戦後に改めて祖父の旧領滝脇村と額田郡内に併せて600石を賜り滝脇に陣屋(滝脇町西洞)を構える。  1/家康、東海道に天馬制を布く。赤坂宿から2里9町、岡崎宿から1里25町の藤川宿は、この年に東海道宿駅に指定される。江戸時代ここにも、飯盛り女がおよそ300人居て、岡崎から男どもが歩いて遊びに行く。「御油や赤坂・吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と、俗謡に歌われた。10/15松平忠吉、清城主となる。尾張一国を支配。 この年、木曽川御囲堤完成。  本多康重、岡崎5万石、本多泰俊、西尾2万石、松平家清、吉田3万石、戸田尊次、田原1万石、水野分長、知多小河1万石、松平忠利、深溝1万石をそれぞれに領した。木曽川堤が完成。家康、関ヶ原の戦い、石田三成を破る。
1602 慶長
7
 家康は、高月院の祖廟参詣の節に、吉木山六所神社に20石の初穂料を献じる。  正月、家康は上洛に際して菩提所高月院にある祖先廟所に参拝し、六所神社に高20石を大明神初穂料として下賜した。(「六所神社由緒記」「松平町誌」)  家康、妙昌寺に梁山・曲り村内20石を寄付。   松平(奥平)忠明、上野長根より入封、作手1万7千石を領す。美濃路開かれる。  4/大雨、美濃洪水。人馬多く死ぬ。7/大雨、尾張。  本願寺東西に分かれる(東本願寺創建)。徳川家康、筑波山の知足院中禅寺(筑波神社の前進)に徳川家の祈願書として500石の寺領。  東海道に松並木を植える。この年、三河各村に幕府検地実施。
1603 慶長8年 徳川家康(62才)、征夷大将軍となる  矢作川に大洪水被害甚大(岡崎市史)。衣郷を、東町、大手町、本町、西町、神明町、中町、竹尾町に分割する。   2/徳川家康(62才)、征夷大将軍となる。江戸幕府成立。 至道無難禅師(法孫に白隠禅師)美濃の国関ヶ原に生まれる。彼の家業は、宿場の本陣問屋。
1607 慶長12
矢作川大洪水・家康、駿府に隠居  3/松平忠吉、江戸にて病死。4/26家康第9子徳川義直、甲府より清洲へ転封され「御三家」尾張徳川家が成立。 8/15矢作川大洪水。  家康、駿府に隠居(大御所)。朝鮮使節来日、江戸に来着。以降外交始まる。
1616 元和
2年
家康、太政大臣就任。没(75才)  4/家康没(75才)。7/徳川義直、、駿府より初めて名古屋に入国。武士も移住する(駿府越え)。成瀬之成、足助1.5万石を領す。水野忠清、上野小幡1万石より刈谷に移り2万石を領す。10/人身売買・タバコ栽培の禁。  家康、太政大臣就任。修験者:木喰、金峯山の山上蔵王堂を再興。
1617  元和

3
 六所神社本地造立
(注:神社蔵の棟札による)
 本地造立 願主 皎月院(高月院)覺與 
 社頭建立 願人 松平太郎左衛門源朝臣由重 并 小衛門
 (注:由重の「由」が不鮮明。「郷社六所神社図記」田中長嶺集録により判読した)
備考  松平由重(?〜1603よししげ)は、親長の二男。松平郷松平家第8代頭首。永禄3年(1560年)、刈谷の戦いで重傷を負って歩行困難となったが、兄が小牧・長久手の戦いで戦死したため家督を継ぐ。その後、家康を始めとした諸将が関東へ移った後も、先祖伝来の松平郷から離れなかったため無禄となった。
尚 

松平尚栄(まつだいらなおよし) 1571年〜1654年

由重の長男。無禄だった幼少時代のことは定かではないが、関ヶ原の戦いに弟・信晴と共に参戦して戦功を上げる。慶長18年(1613年)、家康から恩賞として松平郷において旧領220石が与えられた。大坂の陣では本多正純に属して出陣し、真田軍が家康の本陣を急襲するのを防いだ。その後、新たに230石が与えられ、恩賞金を使用して松平氏館の整備を行った。元和5年(1619)、家康を祀り、松平東照宮を創建した。子に松平信正(養子)、松平重和
  西尾藩主本多康俊、近江膳所3万石へ転封。松平成重、下野板橋より西尾に移り2万石を領す。 この年、成瀬正成犬山城主となる。 日光東照宮建立(家康、東照大権現の神号受ける。)。狩野探幽、幕府の絵師となる。3/吉原遊郭開設許可。    英人コックス・朝鮮使来朝。
1636  寛永

13年
 諸国飢餓   三宅康盛、三河国加茂郡入封、衣城(陣屋)に居城する。  この頃、三河国郷帳つくられる。石高は35万石余。熱田社で「熱田万句」を行う。西尾藩主本多俊治、亀山へ移る。西尾藩領、幕府直轄となる。三宅康盛、伊勢亀山より挙母に移り1.2万石を領す。  6/銭座おく、寛永通報鋳造。日光東照宮の大造営完成。
1638  寛永

15年 
六所神社境内の寶光寺(現・地蔵院)造営
(注:神社蔵の棟札による)
 

備考: 板には、大工の名前と
 領人 宮口村勝屋(庄屋)福津(深津)傳衛門
  ・・とあった。
 この頃の庄屋は深津家であった。
 「誉式山(よしき)(ほう)光寺 造栄(ぞうえい)(さんしゅう)賀茂郡御先祖御氏神六所大明神  松平太郎左衛門尉源朝臣重和 同 高月院本誉尊太 」 (注:重和・・・和or扣 不鮮明であったが、調査の末「重和」。松平由重の孫・重和であると思う。)
 備考:重和  松平由重(?〜1603よししげ)の孫。松平郷松平家第10代頭首。

  1/深溝藩主板倉重昌、島原の乱の征討大将として原城を攻撃、戦死する。島原の乱終結。下野山川藩主太田資宗、西尾に移り3.5万石を領す。伊保藩主丹羽氏信、美濃岩村2万石に転封。以後、幕領。沢庵(1573〜1645)東海寺の開山となる。
1650  慶安3年  ・・・棟札不鮮明にて肉眼で判読不能(管理人)   棟札は在るが文字が損耗して明らかではない。・・・ 郷社六所神社図記・「松平町誌」
1666  寛文
6年
1662:諸国大地震(M7.2)・被害甚大    江戸町人伏見屋又兵衛、矢作川河口に新田開発を出願。竹腰三信、田原湾岸に石塚新田を開く。
  円空、北海道に。円空は、道端に転がる餓死者の山を見たとのこと。
1667  寛文

7年 
 六所神社再興吉木宮一宇 (注:神社蔵の棟札による)  「再興吉木宮一宇 領主 従五位下源朝臣親世謹建立之 乗次」 堂宇再建
備 考  松平乗次(1632〜1687のりつぐ)は、三河大給藩の初代藩主。奥殿大給松平家初代。
  松平 乗次(まつだいら のりつぐ):三河大給藩の初代藩主。奥殿藩大給松平家初代。天和3年(1683)7月に江戸城大奥の普請役を命じられ、貞享元年(1684)に大坂定番に任じられると同時に摂津・河内・丹波などで1万石の加増を受けて合計1万6000石の大名となり、大給藩主となった。しかし領地に入部することもなく、在位3年後の貞享4年(1687年)8月30日に死去。享年56。後を長男の乗成が継いだ。

 岩倉山長慶寺:十一面観音(吉ケ入)この地に移る(開山は、寛永元年)。 田原藩領の収納に干し鰯納がみられる。
1676 延宝
4年
7/関東中の鉄砲改め(百姓等の所持禁止)7/東海道諸国大洪水。尾張国特に大水害。(日本史年表)
 この年夏、至道無難禅師74歳。「即心記」に加筆し、これを完成とする。示寂。
 1678 延宝6年     6月 石灯籠  松平縫殿頭(大給松平氏) ・・・ 下宮
1683  天和3年  棟札確認の記載(「郷社六所神社図記」)   堂宇再建。 (郷社六所神社図記・「松平町誌」による)  ・・・棟札不鮮明にて肉眼で判読不能(管理人)
1684  貞享
元年 
    9/名古屋城下人口54,118人家数5,986軒とされる。松平乗次、奥殿藩1.6万石を領す。11/芭蕉七部集「冬の日」。  渋川春海、貞享暦を撰す。
1687  貞享

4年
5月
六所神社再興吉木宮
(注:神社蔵の棟札による)
 
 5月 「再興吉木宮:従五位下縫殿頭源朝臣乗次 」
備考  この年8月30日没
 1/生類憐れみ令を発布。    ニュートン万有引力の法則発見。
1692  元禄

5年
9/12
六所神社再興吉木宮下之宮不動
(注:神社蔵の棟札による) 
 「 再興吉木下之宮不動一宇:領主 従五位下源朝臣謹建立之乗成
備考 松平 乗成(1658〜1703 のりしげ):三河大給藩の第2代藩主。奥殿藩大給松平家2代。松平乗次の長男。

  このころから、知立木綿市が始まり、三河木綿の集散地となった。 8〜9/碧海郡内幕領の村々、代官に色物差し出し帳を提出。この頃、「奥の細道」完成。  東大寺大仏殿(現存)、再建。
 1711 正徳

1年
 九州・東海道洪水・風雨。九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔。九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門右に地蔵菩薩 3/九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔(角柱)『礼西国三十三所観世音菩薩』。6/24九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門右に地蔵菩薩(舟型立像)。   6/与茂七騒動。8/9尾三地方大洪水(岡崎市史)。8/23岡崎大風雨田畑を害すること6,000石。家400戸破る(矢作川)。11/万石騒動(安房北条藩新役人川井藤左衛門の過酷な検見による年貢増徴策に反対。百姓は国元で訴願したが認められず600余人で江戸藩邸へ門訴。井川は一揆を弾圧し名主6人を入牢。百姓は再度江戸の老中へ駕籠訴を繰り返すが藩は6人の内3人を死罪にする。死罪を知った幕府は百姓の要求を認め、川井を打ち首、藩主屋代忠位ただたかの領地没収。)。 江戸大火。九州・東海道洪水・大風雨。辻で売女取り締まり。近松門左衛門「冥土の飛脚」  朝鮮使節への待遇簡素化。 
1718 享保
3年
三河・伊那地震(M7.0)。 8/坂上町朝日山の六所神社上宮に石灯籠一対『六所大明神御寶前。松平縫殿助源盈乗 奉寄進石灯籠』。矢作川番所、広瀬より細川に移る。  享保の改革(第一段階=通貨統一を命じる。)高松城下大火。 慈雲生まれる。
1736  元文元     玄米2石4斗を六所明神灯明料として増加される。及び翌年さらに玄米7斗8升3合増加して免引される。
1742  寛保

2年 
六所神社再奐興吉木宮本地 并御修覆
  地蔵大菩薩三躯
  守護大明神 三躯
(注:神社蔵の棟札による)

及び
金 幣    
(「郷社六所神社図記」) 
六所神社再奐興吉木宮本地 并御修覆 地蔵大菩薩三躯 守護大明神 三躯松平縫殿頭源盈乗  京大仏師法橋竹内右」 
備考  松平 盈乗(1716〜1742 みつのり):三河奥殿藩の第2代藩主。奥殿藩大給松平家4代。
 初代藩主・松平乗真の長男として奥殿で生まれる。しかし父は享保元年(1716年)7月5日に死去したため、生まれたばかりで9月5日に家督を継いで第2代藩主となる。盈乗,この年没。
 2/吉木山東宮口六所神社(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)、奥の院改築。   寛保の大洪水:大阪周辺に上陸し中部・関東を経て東北地方に出、三陸沖に抜けた台風。京畿その他洪水死者多し。江戸洪水。隅田川などが溢れ各所で浸水。3,900人が溺死。また、信濃では千曲川が溢れ流域住民が大被害。特に小諸町では、武家、町方合わせて500人が流死した。東国大風水害諸城大破。京都積雪1.8〜1.9尺。4/公事方御定書成る。
1751 宝暦
元年
京都大地震。越後高田大地震。 六所神社上宮に石灯籠一対『奉建御寶前 願主織源親房』。京都大地震。越後高田大地震。
1779  安永

8年 
 六所神社再興吉木宮一宇並小堂宇修復
(注:神社蔵の棟札による)


 東国風水害
 「再興吉木宮一宇並小堂宇修復  従五位下石見守源朝臣松平乗穀」 後の乗穏
備考  松平 乗穏(1739〜1783 のりやす):三河奥殿藩の第3代藩主。奥殿藩大給松平家5代。第2代藩主・松平盈乗の長男とし、1739年に江戸で生まれる。寛保2年(1742)に父が死去したため、家督を継いで第3代藩主となる。しかし幼少のため、義父の太田資俊の補佐を受けた。宝暦5年(1755)12月18日、従五位下・石見守に叙位・任官する。乗尹は四男。

 6/吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)東宮口六所神社、奥の院改築。7/23大風雨、破堤(藩史)。8/川端決壊(上郷町史)。8/25村々大雨、矢作川満水。破堤。田畑水腐(藩史)。11/3度々の出水で破堤。田畑損耗。城内浸水。樹木台へ引っ越し。御用番へ堤修繕費等願書進達。(藩史)。 7/碧海郡高棚村 ほか3カ村で助郷反対運動。10/17旗本領碧海郡安城村庄屋中川覚左衛門、救民を願い出て自害する。8月江戸出水。10月桜島噴火・三原山噴火。12/松前藩、ロシア船の通商要求を拒否。
1785  文明6年     再建 「文字消えて読み難し」郷社六所神社図記による
 1790 寛政

2年
 六所神社再興吉木壱宇 (注:神社蔵の棟札による)  「再興吉木壱宇: 領主 源乗尹謹建立之
備考   松平 乗尹(1777〜1818 のりただ):三河奥殿藩の第5代藩主。奥殿藩大給松平家7代。幕末に活躍した永井尚志の実父。
 1777/7/4、第3代藩主・松平乗穏の四男として江戸で生まれる。父の隠居後は兄の乗友が第4代藩主となっていたが、兄の長男・乗詮が渡辺規綱と名乗って渡辺綱通の養子となっていたため兄の養子となり、寛政2年(1790年)3月6日の兄の隠居で家督を継いで第5代藩主となり、寛政3年(1791年)に従五位下・対馬守に叙位・任官し、寛政5年(1793年)に主水正に遷任した。
 しかし病弱であり、藩政の実権は隠居した兄に握られ、自らは日光祭祀奉行や江戸城門番役、大坂加番などを歴任しただけにとどまった。享和2年(1802年)12月2日に隠居し、家督は12月6日に甥で養子の乗羨が継ぐこととなった。
 文化13年(1816年)5月に出家して木斎と号した。文政元年(1818年)5月23日、奥殿で死去。享年42。 
 2/岡崎藩藩医荻須恕因は名古屋の野村立栄を訪問。7/同じく、荻須の門人、碧海郡法性寺村(安城)の本多良作(荻須元良と同一人物=文化13年、法性寺村から堀之内村へ「出医師」となる)が訪問。 5/寛政異学の禁。藩校、多くできる。8/19伊賀八幡宮石垣、上里、西熊村等洪水にて壊れる。(矢作川)。 11/27刈谷藩の先納金等について連日農民集会。この年暮れ一揆。藩主は謹慎、藩領高13,000石を福島藩領・幕領とする。
  江戸の無宿人の授産・厚生施設「人足寄場」、隅田川の河口にある島の一角(今の東京都中央区)に造られた。
1808 文化

5年
5月上方洪水。
摂津・河内水害。
 1/坂上町朝日山の六所神社上宮南に、石灯籠奉献燈篭御神燈。伊勢神宮遙拝所』。  3/22九久平町寺前15の吉祥院山門左に地蔵菩薩(丸彫立像)『大源周明和尚』。7/25大風雨、、潰家26軒、半壊22軒、怪我人男女35人、内2人即死。矢作川破堤。水腐。(藩史)。  8月八幡祭で永代橋落ち500人死亡。 4/間宮林蔵樺太探検。8/フェートン号事件。江戸町人5人を町方御用達に登用。
1827  文政

10年
 矢作川洪水(岡崎市史)

翌年も洪水
 5/21矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。   8/碧海郡和泉村の都築弥厚、加茂・碧海両郡一体開拓のため、矢作分水を計画し、願い出る。この年、伊藤圭介(名古屋町医の子。蘭方医・植物学者)、長崎でシーボルトに医学・博物学を学ぶ。三河の羽田野敬雄(三河吉田田町神明、羽田村八幡両社の神主)・吉田熊野神社神主鈴木重野・舞木八幡宮(岡崎)神主竹尾正寛、平田篤胤門・平田大平に入門する。     頼山陽「日本外史」を著す。西郷隆盛(薩摩藩士)生まれる。槍ヶ岳(標高3180m)、播隆(1786年一向宗の家に生まれる。19才で出家。)長年の苦心の末、阿弥陀仏・観世音菩薩・文殊師利菩薩を安置する。小林一茶没(65)。ジョン万次郎生まれる(1827〜1898)。
 1832 天保

3年 
 天保の飢餓始まる   
 大内町三本松の松平乗元墓に石灯籠一対 
 大内町三本松の松平乗元墓に石灯籠一対。『大給主 松平石見守源乗利之立』。
備考  松平 乗利( のりとし):三河奥殿藩の第7代藩主。奥殿藩大給松平家9代。
   5/幕府役人平岡彦兵衛、加茂・碧海両郡の新開拓見込み地を検分。9/18大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。12/設楽郡中設楽村などの商人仲間31人、柿、楮(こうぞ)、たばこなどの仕入れについて議定する。これより同郡月村など6カ村(振草七郷)と争論がはじまる。  天保の飢餓始まる。鼠小僧次郎吉死刑。頼山陽没(53)。
1836  天保

7年 
 (かも)の騒動・大内町三本松の松平乗元の墓に、手洗石
 諸国凶作で米価高騰。
 伊豆地震(M5〜6)。
 8月諸国洪水
 3/大内町三本松の松平乗元の墓に、手洗石(角型)『松平石見守乗利造立之

  1/寺津八幡宮神宮渡辺政香「参河志」を著す。  8/13暴風雨、三河一帯に被害。米価高騰、物価高騰米の買い占めによる生活困難。
  9/16鴨の騒動
  同じ頃幡豆郡地方でも打ち壊し等おこる(頭取:下河内村松平辰蔵)。  諸国凶作で米価高騰。一揆・打ち壊し。洪水後、全国各地で飢餓・死者多し(奥羽地方最も甚だしく死者50万人)。江戸辻斬り強盗横行。  国定忠治は、私財を投じて飢民救済したので、赤城山麓では一人の餓死者も出なかったと羽倉簡堂(忠治を取り締まる立場の者)が記録している。
1841  天保

12年 
天保の改革
 8/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築
坂上町丸塚61-1の観音堂に念仏塔 
 9/坂上町丸塚61-1の観音堂に念仏塔(平石)。  加茂郡羽明村(豊松町)名主河合金右衛門、九久平・足助間の水路(巴川)開さくを幕府に出願。 8/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。  伊藤博文(〜1909)生まれる。10/渡辺華山自刃・没(49)。5/天保の改革はじまる。7/異国船打ち払い令緩和。
 1849 嘉永
2年 
 再興 吉木下宮不動一宇
(注:神社蔵の棟札による)
 領主・松平石見守 従五位源朝臣建立之乗利
備考  松平 乗利( のりとし):三河奥殿藩の第7代藩主。奥殿藩大給松平家9代。
1851  寛永

4年 
助郷免除の嘆願 
助郷赦免の陳情文    六所神社蔵
 乍恐以書付奉願上候              (宇野鎮夫氏解読)
一 当村之儀は東南に高山在之右山より出申候清水ノ以田方へ引申候間 実法悪敷其上猪鹿猿等出実
 法最中ヲあらし申候間取入間違難渋仕候
一 去ル戊年凶作処削申上候通り冷水引申候田地ニ付別而悪敷一向実法不申村相続之難出来ニ付甚だ
 難渋仕候
  前奉書申上候通り困窮村方之儀ニ付何卒御慈悲ヲ以助郷候儀御赦免被下置候様奉願上候以上
  嘉永四年辛亥五月
     松平岩見守領分
     三州加茂郡宮口村
        百姓代   藤吉    印
        組頭    又左エ門  印
        同     吉兵衛   印
        庄屋    庄兵衛   印

 
福井柳右衛門 様
 桑原 金輔  様

  (注:庄兵衛は、2年後に没している。1853.10.17没 戒名 了覚 没年齢不詳・妻の年齢は35歳。次代の庄屋は綱平16歳)                            
 助郷赦免の陳情文(要約)    三州加茂郡宮口村
 「恐れながら書き付けを以て願い上げ奉(たてまつ)ります
 一 当村
(宮口村)におきましては東南の高山が在り,この右の山(吉木山)から清水を
  田へ引いているのでありますが、稲の実りが悪い上に実りの最中の収穫前に猪鹿猿
  が出て田を荒らすので予定の収入が無く常に難渋しています。
 一 特に去年より凶作の報告をしましたとおり、山からの冷水を引いての水田は収入
  が急減し、一向に実らず村民の生活が成り立たないほどに甚だしいく困窮しており
  ます。
 前述の通り村方が皆困っておりますので、何卒お慈悲を以て助郷の勤めを免除して下さるようお願い申し上げ奉
(たてまつ)ります。」

                   豊田市坂上町 六所神社 郷倉蔵     管理人 意訳
          
  注:右の山(六所明神)の霊山からの水で米を作っていることをことさらに加えていることが、後世の村民として切実さが意味深く感じられる。宮口村の助郷免除の嘆願の2年後に庄屋は没している。その息子は16歳程で庄屋を命ぜられた。
 注:「一向実法不申村相続之難出来ニ付・・」・・一向に実らずと申し、村民が生活が出来ず相続も難かしくなった という訴えは、前後の社会の様子から推測し想像に難くない。このときの庄屋の年齢は不明であるが、妻は三十三歳前後、息子の綱平は十三歳前後であった。翌年、庄屋を息子・綱平に譲った。
  (年齢は、後年、綱平が書き残した累代の記録から、母親の死亡時の年齢が判明したため、それらの記録から推計した。)
 15年前には「鴨の騒動」があった。「鴨の騒動」の2年後に、1月幡豆郡寺津村で助郷役免除を嘆願(平地山騒動)。
 相応の覚悟をして陳情に及んだと思われる。       ・・・管理人
  江戸時代に陸の主要通路として東海道・中山道・奥羽街道・日光街道の五街道が開かれ、その宿駅には特定の人馬が常備されて幕府の公用旅行者または特権旅行者の用に供された。しかし、この常備の人馬では不足する場合が多かったので政府は附近の村々から石高に応じて一定数の人馬を徴発してこれを援助させた。この援助をすること或いは援助を命ぜられた郷村を助郷といった。徴発される人馬に対しては御定賃金が支払われたが、それは助郷から宿場までの往復については何らの報酬もなく、宿場から次の宿場までの賃金に過ぎなかったし、はなはだしい時には無賃の場合さえあった。
         
 昔のことであるから旅行は季候のよい春秋が多かったであろう。然しそれは農民とっては最も重要な農繁期である。人馬が出なければその代わりに金を出した助郷に支払われる公定賃金は非常に安いのでその差額は村で負担しなければならなかった。而も次代が下るにともなって街道の交通ははげしくなったので、助郷人足の数もうなぎ上りに上昇した。従って農民の迷惑は想像以上であり、江戸時代の街道近くの村財政に於いて助郷の費用は非常に大きな部分を占めていたと思われる。
        「松平広報 ・・文化財めぐり」 昭和44年12月以降  宇野鎮夫氏 より
 3/名古屋の株仲間ほぼ復興される。4/「五拾壱加上:五拾壱ケ条」平勝寺梅童(住職か?)により写書されて今も残る。(杉本時一氏蔵)  江戸に辻斬り多くその切り捨てを許す。ジョン万次郎上陸す。  
1852  嘉永 5年    7月京都暴風雨諸国被害多し。
 開国・尊皇攘夷運動・討幕
 6/九久平簗場の松生島弁財天に石灯籠(一部新しい)。7/21翌日にかけて大風雨。8/16大雨。8/22大風(矢作川)。8/8碧海郡天白地内矢作堤破壊。幡豆郡高落地内でも決壊。(矢作川)。  2/武蔵大森の大砲演習場完成。 5月江戸城西丸全焼。明治天皇誕生。8/蘭商館長、米国船来航計画を告げ、鎖国の危険を説く。
1855 安政

2年
安政南海地震(M8.4)。10/2江戸大地震。林添町寺脇・晴暗寺西に馬頭観音  8/ 金灯籠  大津村中根平丘衛 建立   ・・・ 御滝場 ?
 林添町寺脇・晴暗寺西に馬頭観音(舟形立像)。  2/尾張藩、米穂の他所積み出し禁ず。7/26この日より二日間大雨。細川堤切れる(矢作川)。7/29矢作川洪水(1丈8尺)、堤8カ所、その他各所に破堤。田畑水腐。救助のために粥を下す。家屋4軒流失、本漬19戸半漬3軒、その他66軒浸水(郡誌)。8/20村々大風雨。漬家5軒、半漬12軒。矢作川堤防8カ所決壊。倒木66本(藩史)。これにより高潮で伊勢湾沿岸の干拓新田堤防91か所破壊される。11/尾張藩、他所米の移入を禁ず。  12/日蘭親和条約。幕府、洋学所を設置。
1858  安政

5年 
 六所神社再興吉木宮御本社一宇 并 御修復  守護大明神 地蔵大菩薩

 金六両 永貳百貳拾七文差加

(注:神社蔵の棟札による)
 「六所神社再興吉木宮御本社一宇 并 御修復:従五位下松平兵部少輔源朝臣乗謨  
 金六両 永貳百貳拾七文差加   松平太郎左衛門源頼載
備考  大給 恒(1839〜1910おぎゅう ゆずる):三河奥殿藩の第8代藩主。のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主。奥殿藩大給松平家10代。江戸幕府の老中、若年寄。明治時代の政治家・伯爵。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)
  備考:この頃の庄屋は、本田綱平22歳 

 東海その他地震。4/井伊直弼、大老となる。6/19日米修好通商条約調印。これは、尾張藩の藩論を二分した。これを不可とする尾張藩主徳川慶勝、大老井伊直弼等により謹慎。安政の大獄(〜59)。 7/蘭・露・英と調印。9/仏と調印。 8〜9月江戸コレラ大流行(2.8万人死亡)。11月江戸大火。福沢諭吉、蘭学塾を開く。 大原幽学没。
1862  文久

2年
 六所神社吉木宮御鳥居
 金壱両 永百六拾壱文七分差加

(注:神社蔵の棟札による)
 「六所神社吉木宮御鳥居 金壱両 永百六拾壱文七分差加従五位下松平兵部少輔源朝臣乗謨 」
備考  大給 恒(1839〜1910おぎゅう ゆずる):旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)
 松平乗利の長男として生まれる。幼少時から聡明で知られ、西洋事情にも通じていたとされる。嘉永(1852)3月8日、父の隠居により家督を継いで奥殿藩の第8代藩主となる。6月には竹橋御門番に任じられた。 嘉永6年、ペリーの来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成した。11月に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。万延元年(1860)には日光祭礼奉行を務めた。文久3年(1863)1月には番頭頭に任じられる。8月には若年寄に任じられた。9月11日、藩庁を手狭な奥殿藩から領地の多くが存在する信濃佐久郡の田野口(現在の佐久市)に移転し、新たに龍岡城を建設した。 その後は幕政に参与したが、元治元年(1864)6月に開港問題などで松平慶永と対立してしまい、若年寄を罷免された。慶応元年(1865)4月、三河で信濃移転に対する反対運動が起こる。5月には陸軍奉行として幕政への復帰を果たした。その後、7月に若年寄次席、12月には若年寄となり、慶応2年6月には老中に栄進し、10月からは朝廷との交渉役を務めている。11月に正四位下に昇叙し、12月には陸軍総裁に任じられた。 

 7/26大雨、屋敷一円浸水。菅生川は格段に水多し(矢作川)。天白・高落西浅井破堤(西尾市史)。1月江戸火災多し。1/坂下門外の変。3/24坂本龍馬脱藩。故郷をでる。 4/伏見寺田屋事件。4月以降麻疹流行。4/第二次東禅寺事件。8/生麦事件(幕府に幕政改革を行わせた津島久光一行は江戸からの帰途、神奈川の近郊生麦村(横浜市鶴見区)で、騎馬の英人と出会った際薩摩藩士が行列に対し無礼があったとして商人リチャードソンを殺害、他の2人に重傷を負わせる。英は薩摩藩に謝罪と犯人処罰・償金支払いを求め、幕府は10万ポンド払ったが、薩摩藩は拒否。翌年、薩英戦争後薩摩謝罪。罰金を支払ったが結局、犯人を処罰しなかった。)。12/英国公使館焼き討ち。 京都無頼の輩横行。江戸市中浪人徘徊し辻斬り、豪商を略奪。
1903 明治

36
 八ケ峰神社雨覆修繕  9月19日
 社司 月山峰太郎  社掌 酒井高吉
備考     記載によれば・・・この時の氏子惣代
  酒井重五郎
  杉山鈴太郎 (杉山繁好氏曾祖父)
  河合庄五郎
 籠殿(こもりでん)屋根替修復
 御輿殿(みこしでん)屋根替修覆
1909    明治

42 
  熱田社本殿御屋根修覆   5月5日 
  社司 月山峰太郎  社掌 酒井高吉

備考      記載によれば・・・この時の氏子惣代
  酒井重五郎
  浦野秀次郎(浦野弘・一郎氏の祖父)
  酒井兼松
  和田梅松(和田鋭一・良一氏の祖父)
 
本殿の入り口からふり返って

鳥居の方向を撮影。


落ち葉を掃き清めて、

次の場所に向かうところ・・。
 さて、右奥に進むと別称『隠居神』の鎮座する場所がある。 本殿を左に見て、ここから一端下がる。
歴史参考:4
 1527年大永7年12月吉木山、野火により六所神社社殿全焼。社殿再建のために松平宗家五代長親は、嫡子六代信忠とともに神社造営奉加帳(寄進状)を松平一門宛に送付。
 「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中、松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり」云々。百疋:道閲(五代長親)・五百疋:祐泉(六代信忠)。この寄進状によって三代信光以来、六代信忠になっても安祥城を根城にして、山間僻地の松平村を領し、六所明神(加茂明神とも称した)を厚く信仰していた。
本殿を見ながら、隠居神様に赴く。
松平親氏
(ちかうじ)が奥州塩竃神社より勧請してここに祀るまで、氏神として崇めていた神社である。
松平親氏は、徳川家康の祖先である。
歴史参考:5
 焼失した六所神社の社殿を再建するため、松平長親(松平宗家5代)は、その子信忠(松平宗家6代)と共に献金し、松平氏一族へも寄付すなわち奉加を呼びかけた。この奉加帳の年次はわからないが、社殿が焼失したという大永7年から祐泉が亡くなった享禄4(1531)年の間のものと考えられる。
 このような樹木が自然のまま遺っている。 この下あたりに、昔は寺院もあったという。

 
『地蔵院』である。今は、下宮の近くに移転している。
歴史参考:6
 1468年応仁2年:地蔵院、六所神社山上の神宮寺である寺屋敷の宝寿院(妙昌寺住職曰く:芳樹院殿)を,外宮の近くへ移して光室長運智蔵が開かれた。本堂は茅葺きの寄せ棟造りであり、濡縁も向拝もなく珍しく禅宗寺院の旧態を残していた。曹洞宗の梁山妙昌寺系。
永らく無住の寺となった。

 ☆ ひとこと ☆
 「由緒記」は、歴史上の人物の出現によって、その人を因んで編集されるものだ。
 ヒトは何か未知の偉大なあるものを崇拝し、信仰する動物である。
 定かではない未来への不安を御山や大岩に・・・太陽や星にあるいは危険で恐ろしい動物に祈りの心を献げる。この点が他の動物と性格を異にする。この神社も、そうであった。人は、自然に対する態度や行為によって、自然との交渉をよび起こし、霊的に機能させたいと望んだのである。 もともと、「この御山・吉木山・蜂ケ峰には神が宿る」と、霊山だと思われていた。
 決して、親氏が松平の地に辿り着くまで、・・それまでの間、此所に住民がいなかったわけではない。そして住民達に山に対する信仰がなかったのではない。
 しかし、徳川家の存在によって、この神社と御山に格別の意味が生じたわけである。
                   ****************************
 毎年恒例の蜂ケ峰祭を行い。ちょっと変わった『突き飯』をお供えする。これはその時に隠居した神様を祀る行事である。この由緒以前に先住していた民達が深く信仰していた神が、「蜂ケ峰社・隠居神」なのである。
                   ****************************
 他所から移り住んだヒト・旅人が、特定の場所を選んでその場所に定住しようとすると、先住の民達と調和し上手く共存する必要が有る。
 その時に、一番有効なことは、先住の民の信仰と同化することである。
 群雄割拠の時代、参入した人がカリスマ性を発揮して住民を従わせようとすれば、この策は一層に有効となる。

 古来からの言い伝えによると、松平親氏が、奥州塩竃神社に勧請したご神体は、一時期、三州提立村
(現石楠町)にあったという。この場所を村人達は”古六所”と呼んでいる。その後、現在地に納まるまでに、焙烙山(旧日明村)に祀られていたという文書もあった(この由緒記に記されていない部分である)
 現代ほどに平等思想がはびこっていない時代には、余所者
(よそもの)は、認められにくかった。昔、婿養子で新しい村人となった男も、ほぼその人生の終わり近くまで、発言力は小さかったことを記憶している。
 仏道修行してきた自分の過去と携えてきた奥州塩竃の神達と共に、この地域でのStatusを得ようとしたが、容易ではなかったことが推測されるのだ・・・。
 編集者には、新規参入者
(新参者)の持ち込んだ新しいご神体に対する前住民達の人情が見え隠れする。
 ・・・・ 松平親氏以前から、この地に住まいしていた住民の末裔は、「蜂ケ峰祭」をしつつそう思う
。・・・ 管理人 
この階段は、氏子(うじこ)達によって2003年に設造された。 

下の写真:上に見えるのが、
隠居神の社殿
    LINK   蜂ケ峰神社祭
 奥の院・蜂峯神社 祭神は  大巳貴命 (おほなむちのみこと) 及び 日本武尊である。 大巳貴命は、出雲大社と同じ祭神

 ここにおわすは「大巳貴命(おおなむちのみこと)」と「日本武尊」である。
 「大巳貴命」は、大国主命とも称し大国主
(おおくにぬし)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神である。
 「天の象徴であるアマテラスに対し、大地を象徴する神格でもある。
 その御兄弟は八十神
(やそがみ)と言はるる程大勢であったが何れも之れも皆意地悪のやくざ者ばかりであったが大巳貴命ばかりは至極温厚で慈悲深いお 方であった。」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』.

 大巳貴命 (おほなむちのみこと)              出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

 大国主は多くの別名を持つ。
 これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされる。


 
大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。
 すなわち意宇
(おう=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もある。

  • 大穴牟遅神・大己貴命・大穴持命(おほなむち) - 大国主の若い頃の名前
  • 大汝命(おほなむち)-『播磨国風土記』での呼称
  • 八千矛神(やちほこ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
  • 葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこのを) - 「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
  • 大物主神(おおものぬし)
  • 大國魂大神(おほくにたま)
  • 宇都志国玉神(うつしくにたま)
  • 国作大己貴命(くにつくりおほなむち)伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
  • 所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)出雲国風土記における尊称

 日本書紀』本文によるとスサノオの息子。
 また『古事記』、『日本書紀』の一書や『新撰姓氏録』によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。
 スサノオの後に少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭
(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。
 国土を天孫・瓊瓊杵尊に譲って杵築
(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となる。

 因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に記載されている。
 『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には「越八口」を大穴持(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとある。

 大粒の雪が降っていた。2002年12月15日であった。何故か忘れられない。

歴史参考:再
 1377年永和3年:8/19'松平太郎左衛門親氏、吉木山
よしきやま(又は芳樹山と称す)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。
 ご本殿を芳樹の宮と名付け、六所大明神と称した。
 猿田彦神
(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。
 それまで、吉木山は、そのものを神体山として、古往は
大山祗神を祀り、産土神として奉拝していた。
 その後は、隠居神として同じ山頂の東北にある峰に遷り、「蜂ケ峰神社」となった。
 出雲の国と伊勢の国との歴史的な経緯をもっと知りたくなってきた。松平→徳川家の歴史とは別なところに、もう一つ「歴史」の真実が明らかにされなければならない。静かに隠居している”蜂ケ峰神社”を詣でる度に、私は加茂族の来た頃の時代に思いを馳せるのである。
                              
 ・・・・・ 苦縁讃
この映像は、’3年11月のものである。

この時には、すべての写真がハッキリと写った。

霞んだものはなかった。

この奥に進むとヘビ神様が鎮座する。


定かに見えないが、降った雪は、霜柱のような形状であった。(写真上)


2002年12月15日であった。

樹木は、ご覧のとおりだった。
隠居神様の社殿。
ご覧のとおり。

霞んだ画像の方が多かった。

2002年12月15日であった。

写真は、本宮の石灯籠。
隠居社殿を左に進むと、「蛇神さま」。

昔、宮司が大きな白蛇を見た。

そこで、
ここに小さな祠を作って祀り始めたと伝えられている。

<木製トタン葺き(右)>

2002年12月15日撮影
”隠居様”から、本宮に向かう山道。
距離は70m程あるか?。
地蔵院はこの辺りにあったか?


歴史参考:7
1568年永禄11年:宮口・地蔵院・開山は、無染融了禅師が、
六地蔵を奉ることから”六所”の名が付いた(妙晶寺古文書)、六所本殿の神宮寺を山上から移して現在地に作る。
2004年5月1日撮影。 本宮にも春が訪れていた。 隠居神の前の天然木。
           
参考までに・・・
参考:8 六地蔵とは 地蔵信仰の所以は、「蓮華三昧経」に、以下のように紹介されていた。
 
 日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。
 これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。
  六地蔵の個々の名称については一定していない。
 地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。
 いずれにしても、像容のみからそれぞれの地蔵がどれに当たるかを判別することはほぼ不可能である。

  出典: フリー百科事典
         『ウィキペディア(Wikipedia)
『地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上を能(よ)く化す。』とあるそうな・・・。
 
六地蔵の思想は、ここからでたものか?
          
地蔵の十益
第一: 豊穣、
第二: 家宅永安、
第三: 先亡者は天に生まれ、
第四: 現存者は寿を益(ま)す、
第五: 求むるところ意を遂げしむ、
第六: 水火の災をなくし
第七: 虚妄を砕除、
第八: 悪夢を杜(と)絶、
第九: 出入神護(出たり入ったり神様が守ってくださる)、
第十: 多逢聖因、神聖な尊い因にたくさん出会える。

この小さな坂を登ると、本宮のブロック塀が見える。

歴史参考:9

 1602年慶長7年:'家康は、高月院の祖廟参詣の節に、吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)六所神社に20石の初穂料を献じる。

 1742年寛保2年:2月吉木山東宮口六所神社(妙昌寺文書によると、「芳樹山」とある。)、奥の院(この社殿)は改築された。
始めにくぐった鳥居を帰る。
清掃は終了したのである。
歴史参考:10
 1645年正保2年:東宮口(坂上町)の
馬祭りこの年より始まる。周辺の部落から装飾した馬を持ち寄って、外宮の境内を走った。昭和18年生まれの小生にもその記憶がある。
 管理人:当地域は、昔、東加茂郡であった。加茂族が当地域に流れ?て住み着いたと考えられる。「賀茂神社」との関連があるとすれば、馬祭りは、1200年以前から在ったと思われるが・・・?!。
六所神社は、神社所有の山林がある。

巨木も多い。

 しかし、神社維持の経費捻出のために、巨木を伐採して、それに充てた時代があった。参拝者は、近年少なく、従って賽銭は僅かしかないからだ。

現在は、保有林に指定されたお陰で、その補助金が経費に充当できるようになった。
このような雪は、

生まれて始めてみた。

2002年12月15日

だった。





 
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